終戦50年後に帰って来た手紙

作詞・台詞・作曲 大村 公伸

《朗読》
昭和20年、遠い昔の記憶だが、あの光景とあの日の出来事
は一日も忘れたことはない。旧満州にいた多くの日本人が
“舞鶴港”に引き揚げた。私も現地の中国人女性との間に生
まれた幼い娘を連れて港にたどり着いた。
娘の名前は“綾子” 当時、5歳。
《歌》
港は引き揚げ者や出迎えの人達で高鳴る声、
溢れる熱気で真夏のように暑かった。
綾子の母は、手作りの刺繍と切ない思いを綴った手紙を娘
に渡した。
私は綾子の震える小さな手を握り、故郷の神戸へ戻る方法
を必死で探してた。一瞬だった。わずかな時間だった。綾子の
手を離したのは…
《朗読》
はぐれた綾子を必死で探した。 そうだ、きっと、泣き声でわか
るはずだ。でも、昔から厳しく育てられ、めったなことでは泣かな
い子供であった。頼む、今は大きな声で泣いてくれ! 泣き声
はしない…。地響きのような群衆の波が子供の泣き声など飲
み込んでしまう。
《歌》
綾子は死んだと自分に思い込ませた。大人の私でさえ、生きる
のがやっとの世の中だった。
それから働いた。必死で働いた。人に言えない悪いこともした。
故郷の神戸で小さな会社を立ち上げた。仕事は順調に進み、
またたく間に会社は大きくなった。
綾子のことは、遠い昔の事は、忘れかけていた。
《朗読》
35歳、友人の紹介で結婚。二人の娘が生まれ、幸せな日々
だった。創業30年で上場を果たした。従業員も相当に増えた。
世間では正に成功した日本男子の象徴だった。
でも、満たされない何かを いつも 心の中のどこかで 感じていた。
《歌》
引退後、慈善事業やボランティア活動
精力的に行った。まるで過去の自分の罪を誰かに許してもらおうと…
その頃に癌が、末期の癌が…。 あと僅かな余命と宣告された。
でも、不思議なほどに死ぬことに対する恐れや後悔はまったく、
まったく無かった。
ただ、自分が死期を、死を前にしたとき、昔の綾子の姿が心に
よみがえる。
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《朗読》
妻や娘たちは私のこの過去のことは全く知らない。誰にも話した
ことはない。しかし、古くから親しくする友人にこのことを打ち明け、
密かに綾子を探して欲しいと頼んだ。でも、綾子が生きているは
ずはない。 今更、見つかるわけなどない。と思っていた。
《歌》
綾子は生きていた。今も“綾子”という名前で生きていた。
遠い昔に生き別れた愛しい娘 50年の歳月過ぎても綾子だ
とわかった。 
《朗読》
大阪で自転車屋を営む親切な夫婦に引き取られて暮らして
いたらしい。幼い子供が母親からの手紙を胸に持って、あの
動乱の日本をひとりで生きた苦労は計り知れないものなのに
綾子は笑顔で幸せな人生だった。と言った。
私に対する恨みなど一切無かった。と言った。
《歌》
世間で成功者として、もてはやされ、自分の生き方 誇りを
持ってた私の人生など綾子の人生に比べると どんなに詫び
ても足りるものではない。
君が育ててもらった君が愛するご両親のご好意で私の最後
の数か月を綾子と“親子”でいれた。 本当に感謝している。
《朗読》
もし、もしも許してくれるなら君が大切にしているお母さんから
の手紙を私の亡骸と一緒に入れてもらえないだろうか。
その手紙が50年間の君の人生を知っているなら、せめて、
せめて少しでもそれを背負って私は死にたい。

本当にありがとう。会えてよかった。


Vocal K.Omura
Guitar/Harmonica K.Izumi
WoodBass A.Iwai
Keyboard/Synthesizer M.Yamamoto
Cajon K.Shirasugi

Arrange by まほろばclub

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